全国から予約が殺到する最強の治療院

「せっかく子供たちが、抱っこもおんぶもせがまなくなったのに・・

やっと楽できるようになったわと思ったら、自分の体がガタガタ。もう歳やわ」

四畳半ほどの小さなスペースしかない施術室。

やっと四十代に手が届いたばかりに見える女性が、

自分の腰をさすりながらつぶやいた。

 

「「いやいや、歳なんかじゃないですよ。お忙しくてお体のケアができなかっただけです。」

 

「「そやけど、全身マッサージに行っても全然ダメで。その時はええけど、またすぐ腰痛がぶり返すんです」

 

「痛いところだけさすっても改善にはつながりませんからね。大丈夫ですよ、私がちゃんと治してみせますから」

 

若い治療家にそう言われると、女性は納得したような、

でもどこかまだ不安そうな表情をちらりと見せながら施術台に上がった。

 

治療家はその表情を見て、そりゃそうだろうな、と思う。自分はまだ三十代半ばである上に、実際の年齢よりずっと若くみられることもあるのだから。

子育てが一息ついた年代の女性から見たら「こんな若い先生で大丈夫なのか」と感じてしまうのが自然だろう。

 

しかし治療家は、そんな不安な表情を見ても、全く気を害することは無い。

 

これまでに何度も向けられたその不安な表情を、自らの手で変えてきた実績があるからだ。

 

若い治療家の名前は前川雅治、34歳。

 

今や大阪府内でも最も予約のとりにくい治療院と言われる

「ゆずクリニカルルーム」の院長である。

 

誰も賛成してくれなかった開業

「ゆずクリニカルルーム」には、遠路はるばる治療を受けにやって来る患者も多い。

 

そしてその多くは、他院と比べて高額な施術費にも関わらずひっきりなしに患者が訪れると言われる「ゆずクリニカルルーム」の、評判から起こされるイメージとは大きく異なる、狭くて待合室もない、小さな牛乳屋の跡地に作られた外観にひどく驚く。

 

「先生、もっと大きいところに引っ越さないんですか?ってよく言われますよ」

 

前川は楽しそうに笑う。

 

「でもね、大きいところや綺麗なところに引っ越しても、やることは変わりませんから。患者さんの体を診て、施術をして、コミュニケーションを取って、生活指導をする。これができれば、僕は場所なんてどこでもいいと思ってるんです。だから特に、リフォームしたり引っ越したりっていうつもりはないですね」

 

広く綺麗で、大きな看板を構え、いくつもの分院を展開する治療院も数多ある中、前川は真逆を行く。患者と自分が向き合えるスペースがあればそれでいい。飾ろう、良く見せようなどという気持ちは全くない。

 

「人の体をより健康にする」、それだけを考え、それだけを行動に移す。

 

治療バカとも言われるこの男の原点は、一体どこにあるのか。

 

サッカーに明け暮れ、苦い思いをした中学時代

1984年。前川は大阪府内の小さな町で生まれた。

家族は両親、そして妹が二人。小さい頃からやんちゃで外遊びが大好きな男の子だった。

 

中学に入ると、やんちゃのエネルギーはサッカーに注がれるようになった。明けても暮れてもボールを追いかける日々。

そしてサッカー三昧の生活が、人生の転機となるある出来事を生み出す。

 

 

 

「痛ッ」

 

サッカーは、敵も味方もひとつのコートに入り混じるスポーツだ。だから多少の接触、衝突は日常茶飯事。ちょっとしたケガなど、ほぼ毎日負っていると言ってもいいほどだ。

 

しかし、その日は違った。

捻ったかな、とは直感的に感じたものの、今まで何度も経験した打撲や軽い捻挫とは次元の違うレベルが前川を襲った。容易に立ち上がることもできない。

 

「おーいマサハル。何してんねん」

「ごめん、捻ってもうた」

 

仲間に抱えられながらようやく家に帰り、そのまま近所の整骨院に行くと、院長から「だいぶ強く捻ったね」の一言。捻挫は捻挫でも、治るまで2カ月近くかかる、とのことだった。

 

「2ヶ月もサッカーできないのか・・」

 

サッカーのことしか考えていない前川にとって、2ヶ月もボールを蹴ることができないという状況は、絶望といってもよかった。

部活に顔は出すものの、ベンチで練習の様子を見ることしかできない。つまらないが、かといって部活に行かずに帰るのも嫌だ。

 

そんな葛藤を抱えながら、一日でも早く捻挫を治すべく、整骨院に通い続けた。

 

初めて治療というものを受ける

院長はそんな前川の気持ちをよくわかってくれた。

「焦っても仕方ないからな」と言われると、「よし、前向きに治療を受けて確実に治そう」と思える。院長の優しい人柄が嬉しかった。

そして約1ヶ月半経ち、ようやく「徐々にやけど、サッカーやってええぞ」と声をかけられる。

 

しかしそこで、さらに苦い経験をすることになる。

久しぶりにボールを触れるようになったのが嬉しくて嬉しくて、張り切りすぎてしまい、今度は反対側の足を捻ってしまったのだ。

 

 

「オレはなんちゅうバカや・・」

 

情けなさと悔しさと、またサッカーができなくなった悲しさに押しつぶされそうになりながら、再び整骨院の扉を叩いた。

院長は前川の話を聞いて、ちょっと苦笑いはしたものの、気持ちを察してか、何も言わずに治療を始めてくれた。

 

結局、全て治るのに計3ヶ月かかった。

 

「足は2本しかないんやで。捻挫は2回までにしときや」

「はい!ありがとうございます!!」

 

両足とも完治したという太鼓判を押してもらい、整骨院の扉を出たとき、前川はしみじみ思った。

 

「先生がええ人で良かった」

 

まだ中学生の前川には、そのとき感じたことを「ええ人」としか表現できなかった。

でも今振り返ると、こんなふうに思う。

 

「ただ治療を施すだけでなく、患者さんが前向きに治療を続けていくことができるように精神的なサポーターになることも、治療家の仕事なはずです。だからあの先生は、本当にちゃんと、治療家としての仕事を全うしていたんだと思います」

「あの先生がいい先生だったっていうのは、僕の中では大きかったですよね。その時は治療家になろうとまでは思わなかったけど、進路を決める時にパッと治療家という選択肢が出てきたのは、先生のお陰だと思っています」

 

前川は、いくら忙しくても、また短時間の治療でも、

「この患者さんが自分の家族だったらどうするか」

と、治療の前に一度考えてみることを絶対に忘れない。

 

このときの経験が活きているためであることは間違いない。

 

 

突然訪れた人生の大きな転機

サッカーに明け暮れた中学校生活が終わり、高校に進学した前川。

高校でもサッカー部に入部したものの、以前のように純粋に、サッカーボールだけ追いかけていれば満たされる少年ではなくなりつつあった。

 

 

遊びたいし、ちょっと大人っぽいこともしてみたい。

 

「遊ぶには小遣いだけでは足りんな」。

 

そう思った前川は、ちゃんこ屋さんでアルバイトを始める。働いた分だけバイト代がもらえるという仕組みは知っていたが、実際に、働いた分が金額となって還ってくるという経験をしたときには、予想以上の感動すら覚えたものだった。

 

「へー、バイトってええな」

 

それからは、当初の、遊ぶためにお金を持っておきたいという目的は二の次になり、アルバイトそのものに精を出すようになった。

 

サッカー部はすぐに辞め、放課後になればすぐにバイト先に向かう毎日。

 

両親からは「社会人になったら嫌でも働くんやから、今はやめとき」などと言われても、聞く耳を持たなかった。

働くことが楽しい。

働いた分、給料が入るのが楽しい。

 

そのときの経験は、 前川の「仕事観」を作り出すことになった。

一生懸命働けば働くほど、それが認められて、給与という数字で還ってくるというシステムは前川を夢中にさせた。

もともと、サッカーにしてもバイトにしても、夢中になったら周りも見えなくなるほど没頭するタイプである。何かしらの職に就けば、誰よりも一生懸命働けるという自信はあった。

 

だから、誰よりも働くから誰よりもいい収入を得られるようになりたい。そうやって認められたい。そんなふうに考えるようになった。

 

もちろん純粋に、「たくさんのお金が欲しい」という欲はある。

 

しかし前川の場合はそれだけではなく、 誰よりも身を粉にして働く、仕事に熱中することができるという強みがあり、自分でもそれを自覚していた。

だから、それが活かされ、収入で判断される仕事が自分に最も向いていると、徐々に思い始めていた。

 

やればやるほど認められ、収入という最もわかり易い形で評価される。自分にはそんな仕事が、きっと向いているはずだ。

 

高校卒業が見えてきた頃、前川はそんなことを考えながら、進路を選び始めた。

 

そして得た答えは「柔道整復師」、 すなわち治療家だった。

 

 

学びながら働く。そのスタイルで得たものは

前川は卒業後、柔道整復師の資格を取るため専門学校に通い始める。

しかしのんびりと学生然とした生活を送る余裕はない。1年間勉強した後、学校に通いながら整骨院で働き始める。つまり、学びながら実務経験を積むことができるうえ、それほど多い金額ではないにしても給与をもらえるのだ。

 

 

「『学校に通いながら実務経験を積んだ』って言えば、聞こえはいいですけどね。実際には落第ギリギリだったんですよ。もともと勉強なんて好きでも得意でもないので、覚えることがいっぱいあって、常に頭から煙が出てましたね。全然ついていけなかった。多くの同級生がすんなり進級する中、僕だけは『仮進級』でしたからね(笑)」

 

「勉強するときはしっかり勉強する、それが済んでから現場に出る、なんて悠長なこと言ってられなかったから。でもね、いま思うと、それがすごく良かったんですよ。実際、座学で学んだことなんてほとんど現場で活きないんです。役に立たない。」

 

『学校に行って、その日の帰りに整骨院に行くでしょ。あれ?って思うんですよ。ほぼ毎日。こんなふうに習ったけどなんで違うんかなって思う。矛盾があるんです。その矛盾は何で生まれるのかって、純粋に興味が湧きましてね。いまの治療の原点ですよ。」

「『もしもあのとき『勉強が済んでから実務に移ろう』っていう考えで行動していたら、もっと全然違う考え方で、全然違う治療をしていたと思います。」

「『単に『いち早く収入を得たい』って思った結果の行動でしたが、結果的に良かったのかもしれませんね」

 

「大きな収入を得るために人よりたくさん働く」、

そればかり考えていた前川だったが、実務と座学を両立させることで少しずつ変わっていた。

治療の勉強にしても、現場での実務にしても、徐々に純粋な興味と向上心が芽生えてきたのである。

「この症状は、こうやって治療した方がより良いのではないか?」

「他の似た症状とどう違うのか?」

「なぜ、この部位にアプローチするのか?」

 

 

そんな素朴な疑問を持ちながら、自ら答えを模索する。

その日々は前川に、新しい楽しみを生み出した。

 

純粋に、治療が楽しい。

患者さんの体が、自らの手によって少しずつでも変わっていくのが楽しい。

 

結果、前川は、もっともっと技術と知識を身に付けたいと思うようになる。

 

そして専門学校の3年間の課程を修了し、

本人曰く「ホンマにギリギリで」合格した柔道整復師の資格を手に、

次は鍼灸師の資格を取るべく、別の専門学校に通い始める。

 

治療方針と保険に対して抱える葛藤

柔道整復師の2年次から通算6年間勤めていたのは、近くの整骨院だった。

 

保険が使えるため、患者が会計時に支払うのは数百円のみ。保険が使えるのは、交通事故やケガによって「負傷」したとされるためだ。

しかし、当時多くの整骨院がそうであったように、前川が勤めていた整骨院も、慢性的な腰痛や肩こりなどにも無理やり保険を適用させていた。

 

そのため、毎日多くのお年寄り患者が、その整骨院に通うことを日課にしていた。診療時間前から扉の外で列ができ、開けたと同時に待合室がいっぱいになる。飴を交換しながらのんびりと会話。そんな光景が毎日だった。

 

前川は、例えば慢性的な腰痛に保険を適用させることに、最初は「そんなもんか」と思っていた。

しかし少しずつ「やっぱりおかしいのではないか」という思いが芽生えてきた。

 

保険とは本来、使われるべき場面がある。

そして慢性的な腰痛を改善させることは、そこには含まれないはずだ。

 

 

税金の有効活用だとか医療費削減だとか、そんな大義名分を掲げたいわけではない。前川がどうしても気になったのは、治療の原点である「患者の体をより良い状態にすること」が、保険適用のままだと叶えられないのではないかという点だった。

 

保険適用だとどうしても、できる治療とできない治療が出てくる。また雇われの身であることもあって、通り一遍の施術しか提供できない。

「この患者さんの、ここまで治してあげたい」と思っても、保険が邪魔をし、またその整骨院の方針とルールが邪魔をした。前川はどうにももどかしかった。

 

 

休日を返上してスキー場で治療する生活

ただ、保険が適用されることで大いに助けられる人がいることも間違いない。

交通事故による負傷を追った患者もそうだが、前川が特にサポートをしたいと考えていたのは、スポーツで負傷した人たちだった。

 

それには、前川自身の中学時代の経験も活きていた。

 

あのとき、毎回数百円の支払いで適切なケアをしてもらえたこと、重度の捻挫も根気よく治療してもらい、時間はかかったものの以前と変わらぬプレーができるまでに回復させてもらえたことは、前川にとって大きい出来事だった。

 

だから自分も、スポーツでケガをした人を治してあげたい。

 

そう考えた前川は、冬季のスキー場での負傷者の手当てをする仕事を自ら引き受けた。

スキー場はもちろん、土日や祝日に多くの人がやってくる。

 

平日は専門学校で勉強し、その後に整骨院で実務を積み、土日にスキー場へ行く、という休みの無い生活になるが、それでも得るものは大きいと感じていた。

 

スキーを楽しむ最中にケガをし、脱臼で運ばれてくる人が毎日大勢いる。

その症状の具合を診て施術をし、可能な範囲内でのベストな状態に戻す。

整骨院とはまた違う経験が、ここで積み上げられることになった。

 

冬季にスキー場へ行く生活は、専門学校を卒業し、社会人になり、独立してからも続いた。その間に治した人の数は数えきれないほどである。

 

ただ単に「働いた分だけ収入が得られそうだから」という理由で選んだ、柔道整復師という仕事。その中で前川は、お金や時間に変えられない大きなやりがいを見出していった。

父の死

学校で学び、そして現場で実務を積む毎日。

忙しい生活を送る前川にある日、妹から電話がかかってくる。

 

「お父さんが倒れた」

 

妹の抑揚のない声を聞いて、前川はまず、「たぶん大ごとではないだろう」と感じた。

というのもその日の朝、具合が悪そうな父の姿を見たばかりだったからだ。父は母が出て行ってから酒におぼれるようになり、ひどい二日酔いで朝を迎えることが多かった。

 

本来ならばその朝、駅まで前川を車で送ってくれるはずだった父が、部屋で嘔吐していた。

 

「なんや、また二日酔いか」

 

前川はそう思って「もう、ゆっくり寝とき!」と言い残し、自分の足で駅に向かったのだ。

 

 

それから数時間後の、妹からの電話。

 

大ごとではないはずや。

大ごとではないはず・・

 

なのに妹は、こう続けた。

「一度、心肺停止になった。いままた心臓が動き出した」

 

 

「心肺停止」などという、悲惨な事故や凄惨な事件のニュースでしか聞かない単語が、なぜ妹の口から出てくるのか。一瞬、激しい混乱に襲われる。が、とにかく病院に行かなければならない。

 

慌てて病院に向かい、医師の説明を聞いている間に、父は亡くなった。

 

 

何もできなかった。

いや、と、前川は自ら否定した。

何もしなかったのだ。

 

 

「いくら柔道整復師でも鍼灸師でも、心肺停止で病院に運ばれているときなんか、絶対に何もできないですよ。それは私もわかっています。」

 

「そうじゃなく、そのときに私が感じた『何もしなかった』は、ただ無力感を覚えたのではなくて、父がそうなってしまう前に本当はもっといろんなことができたんじゃないかということなんです。」

 

「専門学校で学び、実務経験も積んだ中で、より毎日を健康に過ごすにはどうしたらいいかという知識を、当時の私は少なからず持っていました。それを父親に聞かせればよかった、と。聞き入れられず、結局お酒に走っていたかもしれないけど、それを無理やりにでもやめるよう説得することもできたんじゃないかと。」

 

「父は、自分で自分の体を悪くしました。それは明らかです。でもだからと言って周りの人間が、家族が、何もできなかったわけじゃない。ましてや僕は治療家なんですから。だから『できることがあったのに、しなかった』と強く思ったんです」

 

強い後悔が前川を襲う。なぜあの朝、もっと優しく声をかけなかったのか。なぜあのとき、お酒やめときと言わなかったのか。なぜあのとき、なぜあのとき・・

 

後悔してもどうしようもないことはわかっていた。が、止まらない。

 

前川は数週間、様々なことを考えた。

家族について、自分の将来について、治療について。そして、人を健康にするということについて。

 

 

考えて考えて、考え抜いた結果、いくつかの結論を出し、行動に移した。

 

まず、転職

 

以前からもどかしさを抱えていたが、父の死をきっかけに転職することに決めた。その整骨院のやり方では「患者をより健康にする」という目的を果たせないことが明らかだから

 

落第ギリギリの、社会経験もなく専門知識も乏しい学生を拾って働かせてくれたことには深く感謝している。職場の人間関係も悪くはない。

 

でも、感謝よりも人間関係よりも優先するべきことがある。

「健康」を追求することだ。

患者のために。患者の家族のために。

 

自分で得た知識と、経験と、実務と座学の矛盾から、既に自分なりの治療方針は得られていた。この道数十年のベテランが聞けば鼻で笑うかもしれないが、前川はその方針に自信を持ちつつあった。

 

貫くためには、現場を変えなければならない。

そうして前川は、6年勤めた整骨院を辞め、根本治療のできる、治療方針に賛同できる整骨院へと転職した。

 

根本治療の経験から独立へ

転職先の方針は、以前の職場とは大きく異なっていた。

事前にそれを知り、よく調べていたからこそ、その整骨院で働きたいと思うようになったのだ。実際に働いてみると、想像以上に得るものの多い現場だった。

 

保険適用の治療がメインであることには変わりないが、患者も治療家も以前とは違う。対症療法ではなく根本的に体を改善させる治療を行うことで、痛みを再発させない体づくりを目指す。

患者の層が30~50代と比較的若かったのも、当時の前川のやる気を引き出させた。

 

前川は新しい職場で2年働いた。その間に多くのことを学んだ。

 

自分が考えていた治療方針の正しさをさらに裏付けることもできたし、修正することもできた。

何より、以前の職場よりもずっと「健康に関する正しい知識を提供して、意識も体も変えてあげることができた」と実感することが増えたのが良かった。

 

ただ一つ不満を挙げるとするならば、やはり雇われの身として自分が思うようにアドバイスをすることはできない、という点だ。
もっと強く言いたい。

もっと親身になって話を聞きたい。

 

そう思っても、どうしても限界がある。

 

しかしその点については、ちゃんと解決方法がある。そのことを前川は、数年前から薄々と、そして最近では強く意識していた。

 

 

独立。

 

自分の院を持つ。

そうすれば遠慮なく、自分が思うように指導して治療を施すことができる。

 

6年間の実務経験と3つの資格(柔道整復師・鍼師・灸師)、学校の勉強以外でも自主的に学んで得た体・健康に関する知識。

そして父の死と、そこから得た教訓。

患者を健康にしたいという、誰よりも強い思い。

 

それらが、前川に強い自信を持たせていた。自分ならやれる。患者と素晴らしい信頼関係を持って、皆を元気で健康で笑顔にすることができる。

そのためには独立するしかない。

 

 

立ちはだかる現実の様々な壁

しかしそこで、思わぬ障害が前川の前に立ちはだかった。

 

身内からの猛烈な反対である。

 

「身内で独立に賛成してくれた人は誰もいなかったですね。妻にも反対されました。『今が安定してるやん。独立なんてして本当にやっていけるかもわからないのに!』と。今思えば自分にも甘いところがあったので反対されて当然だったんですけど、当時は『なんでやねん!』って思ってました」

 

整骨院で働いている間に結婚した妻からの反対が最も強烈だった。

 

特に前川が、保険診療を一切行わない、自費診療のみの治療院を作ろうとしていることを知ると、反対の勢いはさらに増した。

 

保険診療なら、窓口会計が安く済むので比較的患者が来やすい。

それに対して、保険を使わない自費診療は、治療の制限がないというメリットはあるものの、その分価値の見せ方が難しい。会計が数千円を超えるのだから、なおさらだ。

集客に困っている自費院も少なくない。

 

せめて自費と保険の両方にしては、という意見もあったが、前川はそうはしたくなかった。

保険を適用しなければならないような体の状態になる前に、自費でケアをする。そのことが最も重要だと考えていたからである。

 

結局前川は、周囲の反対を押し切って独立した。

 

「ゆずクリニカルルーム」、オープン。

前川雅治、28歳のときである。

 

 

オープンと同時に患者数がうなぎ上りに増え、多くが前川の治療方針に賛同し、指示を仰いだ。そして現在に至るのである・・・

 

とは、ならなかった。

 

開業当初の苦労を、前川自身はこう語る。

 

「いやもう、最初の半年のことなんて思い出したくもないですね。よくある過ちなんですが、治療技術と方針に自信がある治療家ほど『開業すれば患者数は自然と増える』って思っちゃうんですよ。でも、そもそも存在すら知られていないんだから誰も来ないですよね。実際、最初の1ヶ月はお一人しかいらっしゃいませんでした。」

 

来ない。

とにかく患者が来ない。

 

誰か来たら、自分の治療がいいっていうことを証明できるのに。

証明さえできたら、知り合いを紹介してもらってもっと広めていくことができるのに。

 

一人も来ないのでは、話にならない。

 

 

最初は「そのうちどうにかなるやろ」と呑気に構えていた前川だが、流石に1ヶ月が過ぎ、2ヶ月目になると不安を覚えるようになってきた。

 

いつまでも貯金だけで暮らしていくわけにもいかず、資金面でもこのままではまずい。

 

いろんな思いと焦り、家族への後ろめたさ、悔しさが、頭の中でぐるぐると渦巻いた。せっかく来てくれたたった一人の患者に対しても、その複雑な思い・考えに縛られて素直に対応することができず、結局後に繋げることができなかった。

 

「なんで誰も来んのや」

 

前川は徐々に苛立ちを覚えるようになる。

 

しかし、ある日ふとこんなことに気付いた。

 

「知られてないのは、知られる努力をしてないからや」

 

 

前川は自分の治療方針、そして技術には自信を持っていた。患者を健康にしたい、そのためには生活指導も含めてあらゆるサポートをしたい、という熱意を持っていた。

 

この熱意を無駄にせず、一人でも多くの、健康面で困っている人に役立ててもらうためには、ただ自分の治療に自信を持って院で座って待っているだけではダメなのではないか。

もっと知られる努力をして、「あなたのサポートをしたい」というメッセージを伝えなければならないのではないか。

 

前川はそれに気づくと、猛烈な勢いでチラシをまいた。

院の周辺のみでなく、海側の地域まで範囲を広げて、多いときは一週間で5000枚も自らの手で配布した。

 

その効果は、幸いにもすぐに表れた。

 

チラシに込めたメッセージに賛同してくれる人が問い合わせ、一気に患者数が増えたのだ。

 

あなたにとってのゆずクリニカルルーム

それから先の、ゆずクリニカルルームの繁盛ぶりは、わざわざ記すまでもないだろう。

「治療バカ」だった前川は、今は治療院経営以外の仕事もこなしているが、治療院を長期で空けることは一切なく、以前と変わらず患者の健康を熱心にサポートしている。

 

「患者さんとはね、家族みたいな関係ですよ」

 

前川は言う。

 

「そんなに気を使うこともなく、言いたいこと言ってね(笑)。リラックスして施術受けに来てくれるし、僕の指導もよく理解してくれる。皆さん本当にいい方です。」

「僕は、自分の治療と知識に自信を持って治療院を始めました。その自信は今ももちろん持っています。でもそれだけじゃなくて、患者さんが受け入れてくれるからこそ今があるんだなってことを、最近はつくづく感じます。支えられてるなぁって。」

「だからこれからも、ますます恩返しをしていきたいです。僕ができる恩返しは、健康な体を維持してあげること。一番得意なことであり、一番、患者さんに必要なことです。」

「僕は父を健康にしてあげることはできなかった。その分・・というわけではありませんが、同じ後悔はしたくない、という思いはすごくあります。だから、患者さんのことは、ずっとサポートしたいと思っています。」

 

患者を「家族」と呼ぶ前川。家に帰れば本当の家族、妻と三人の子供がいる。まだまだ手のかかる盛りの小さな子供たちが、前川は可愛くて仕方がない。

この子たちのために仕事に燃え、毎日頑張っている一方で、「家族」と呼ぶ患者たちの体を診て健康をサポートすることを生業としている。

改めて考えてみれば 自分は家に帰っても仕事場に来ても「家族」に囲まれているんだな、と、前川は思う。そして、それがとても幸せなことだと日々かみしめている。

 

 

今日も新しい患者が、ゆずクリニカルルームの扉を叩く。

 

それを前川が、あまり器用とは言えない笑顔で迎える。

 

患者はその若さと、院の狭さを目の当たりにして、笑顔を返しながらも戸惑いを隠せない。

 

 

「今日からこの人との信頼作りが始まるんだな」と、前川は気合を入れる。

不安を笑顔にかえるのは、前川の得意分野だ。

 

今日、来週、そして1ヶ月後。この患者はきっと前川にこう言っているだろう。

「ちょっと前からは想像できないくらい良くなりました!」

「やっと自分のやりたいことがやれます!!」

 

 

これを読んでいるあなたも、「私もこんなふうに『体が良くなった!』って言いたい」と感じたなら、ゆずクリニカルルームをぜひ訪ねてほしい。

 

今はマルチな分野で活躍を見せつつ、原点である「治療バカ」の根を持つ、前川という治療家に会ってほしい。

 

きっとあなたの悩みは、その出会いの後間もなく、解消されるだろうから。

 

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